一国橋の几号水準点
東京駅八重洲口から左へ折れて外堀通り左側をしばらく行くと頭上に高速道路が見えてきます(写真1)。これは首都高速都心環状線で,その呉服橋出入口が向かって右側にありますが,左側には写真2のような大きな親柱があります。
この橋が「一国橋」で,皇居(旧江戸城)外濠(外濠川)と日本橋川の分岐点に架橋されています。親柱は「中央区民文化財」とのことで,読み方は「いちこくはし」となっています。

       
写真1 一国橋全景(2019年6月21日撮影) 写真2 一国橋親柱(2019年6月21日撮影) 

中央区のホームページには,この親柱について次のようにあります。
【一石橋は、江戸城の外濠が日本橋川と分岐する地点に江戸初期からあった橋です。
大正11年6月に木橋からRCアーチ橋(鉄筋コンクリート)に改架され、橋長43m余、幅27m余で花崗岩の石張りの橋となりました。親柱は4本、袖柱は8本の構造で、橋幅は広く、中央を市電が通っていました。翌12年9月の関東大震災でも落橋せず使用されていましたが、昭和39年の首都高速道路の建設で改修され、親柱2本を撤去、同年48年に鋼鉄橋梁となり、袖柱4本も撤去されました。
RCアーチ橋創建当時の親柱は2本残っていましたが、平成9年に大改修をした際に1本を残して撤去されました。残った1本は大正11年改架当時の重量感ある大型の親柱で、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産です。】

さて,今回は橋梁をご紹介するものではないため,橋の説明は上記の解説でおわりにします。

近寄ってみると,親柱の脇に,こんどは「東京都指定有形文化財(歴史資料)」である「一国橋迷子しらせ石標」があります(写真3)。説明板には次のようなことが示されています(要約)。
「江戸時代後半は,このあたりは盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合,町内が保護する事になっていた。そこで安政4年,この地に迷子捜しの告知石碑が建立された。碑文は正面「満よひ子の志るべ」右側面「志らす類方」左側面「たづぬる方」となっている。それぞれ心当たりがどちらかに紙を貼って知らせ合ったという。いくつかあったが震災や戦災などで破壊され現存するのはここだけである。」

写真3 一国橋迷子しらせ石標(2019年6月21日撮影) 写真4 几号水準点(2019年6月21日撮影)

なかなか今回のテーマが出てきませんが,じつは,この石碑の下側を見てください(写真4)。「不」というような彫り込みがあります。これが今回のテーマ「几号水準点」です。「きごうすいじゅんてん」と読みます。説明板にはこの几号水準点に関しての記述はありません。水準点とは日本の高さの基準のことです。

旧内務省地理局では,1876年(明治9年)ごろから高低測量を開始し,イギリス人技師に指導を受け,水準点を設置しました。このとき設置したものが「几号水準点」または「高低几号」といわれるものです。イギリス式の水準点というわけです。

このときは,現在のような独立した水準点標石とは別に,建物,鳥居などの永久構造物にも刻印しました。湯島天神の鳥居,ニコライ堂の建物の基礎,善国寺狛犬,ロシア大使館警備ボックス足下,神谷町八幡神社鳥居,桜田門石積み,日比谷公園心字池亀石などがあり,東京だけで153カ所あるといいます。「一国橋迷子しらせ石標」のものもそのひとつです。

明治24年3月に几号水準点であった霊岸島旧点に替わる堅固な水準点として「霊岸島新点・交無号」が設置されました。統一的に全国的な水準測量を行う必要性から同年5月に日本水準原点が設置されましたが,その標高はこの「交無号」を出発点として求められています。これについては,こちら(国土地理院サイト)もお読みください。また,「身近な土木」シリーズでも,こちら(日本水準原点)こちら(霊岸島水位観測所)で水準点についてご紹介していますからお読みくだされば幸いです。

写真5 一国橋の歴史標識(2019年6月21日撮影) 写真6 日本橋川と常盤橋(2019年6月21日撮影) 

写真5は,今回紹介した親柱の反対側にある標識で,往時の一国橋全景がわかります。また,写真6は,一国橋からみた日本橋川と常盤橋です。よい景観が,残念ながら高速道路のために台無しになっています。日本橋プロジェクトによって,このあたりも高速道路は地下化するのでしょうか。


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