信玄堤

下の写真は,山梨県山梨市、万力公園近くを流れる笛吹川にある「雁行提」です。

これは、武田信玄が行った治水事業である築堤の一部で、これと「霞堤」が組み合わさったものを「信玄堤」と呼び、富士川(釜無川)と御勅使川の合流地点にある竜王信玄堤が有名です(土木学会誌平成312月号付録「土木モニュメント見て歩き」94ページ)。

「…見て歩き」より引用すれば《信玄堤は雁行堤と霞堤という二つの特殊な築堤工法の併用でできている。つまり、(中略)流行を雁行状の土堤で河道の中央に向け、さらに万一の氾濫に対しても後方幾重もの霞堤が遮水するものである。》とあります。

戦国時代におおがかりな築堤工事の方法を確立し、「近世社会の物質的基盤をつくりだした土木技術である」といわれる、いわゆる「信玄堤」を生み出したこれらの工法は、甲州流といわれ、その現在に残る姿のひとつが、この写真の堤防です。

武田信玄が統治した当時の甲府盆地は、富士川の氾濫だけを取っても非常に過酷で、信玄統治の45年間に大水害はほぼ10回に及ぶといわれています。「信玄家法」には、洪水で流失した農民の家の規定があるほどであるといいます。

古来、水を制する者は天下を制するのたとえのとおり、治水の役割は決して小さくはなっておりません。川は、その近くに住めば通運に便があり、農にも良く、すべての人類文明は川の近傍に発生しています。しかし、その水勢をコントロールすることは困難を極め、現代でも毎年のように日本のどこかで河川が氾濫しています。今年になって新たに、地下街やビルの地下室で、水害のため亡くなった方が出ています。

現代の土木技術は、何の考え方が不足しているのか、原点での反省の貴重な材料は、ますます多くなるばかりです。長良川河口堰、吉野川第十堰の問題にもつながっている、古くから解決の難しい、そして新しい問題がここにはあると言えます。

ちなみに、この写真の背後にある万力公園の松は、防水林として松を植えたと伝えられる信玄堤の一部が残っているものです。松は「山梨市の木」でもあります。松の木立から見る万力大橋や平和の塔などの景観も見事で、すべてが市のチャッチフレーズである「緑と水と太陽のまち」にふさわしい様相を保っています。

もうひとつ、武田家の出自は、長い間謎でしたが、茨城県ひたちなか市(旧勝田市)武田が、その発祥の地であることが明らかになっています。今は、館を復元した建物が建っています。

今回は古くて新しい身近な土木を取り上げました。

 

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