技術士のひとりごと 2012 
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2012年11月30日

今年の「ひとりごと」は近年に無く回数の少ないものとなりました。その中で2回続けて美術展などの観覧記になりましたが、なんともはや今回はその3回目です。

東京都美術館で、「メトロポリタン美術館展」というものをやっており、その中にゴッホの「糸杉」が在るため見に行ってきました。3連休の中日だったせいもあって、上野の森は相変わらずの混雑です。やはりというか、私と同年代かそれ以上に見える方々が多く感じられました。(初めて「65歳以上」という入館料で入りました)

ゴッホは私では無く家人が好きなためお供の状態でしたが、やはり他にぬきんでて存在感がありました。良く近くで見ると、ゴッホの絵は、かなりの厚さに絵の具を塗り重ねているのがよくわかります。あまり勉強はしていなかったので、うっかりというか、ターナーの絵も展示されている事をその場に行くまで知りませんでした。

ありました。「ヴェネツイア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む」が。ほかの展示品は素通りして、ちょうどその前にベンチがあったので座り込んでしばらく見ていました。時々人の波が途切れて、まるで私だけの美術展のようになる感じは、何とも言えない経験でした。

帰りにチラシを見たらなんと「2013年秋。英国から世界一のターナー・コレクション来る。」とあるではありませんか。

考えてみたらこの前東京国立西洋美術館でのターナー展を見に行ったのは1986年です。そのときの開会式で英国の代表団が、「英国の持つターナーの作品が、国外の展覧会に出されることは、今後二度とないだろう」と言ったとかで、同年9月14日に見に行ったときは押すな押すなの人の波であったことを覚えています。

私の目当ては「雨、蒸気、速度-グレート・ウエスタン鉄道」と「解体のため最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」でしたが、後者は残念ながらなかったようです。(記憶の底にはあったのですが何かの勘違いか、今1986年の図録を見直したら、「戦艦テメレール」は載っていませんでした。不思議だなあ)とまあ「糸杉」ですが、話題がそれました。

帰りに、国立博物館の「特別展出雲」に行きました。
これは、今年の7月に島根県建設技術センターにお招きをいただいて3時間ほどの講演をしてきたからだと思うのですが、招待券をいただいていました。一般公開の前日の開会式(10月9日)にはお邪魔したのですが、あまりよく見ることができなかったので再度行こうというわけです。

出雲大社や銅鐸、銅剣、銅矛の展示ですから、今度はゆっくり見ることができるかなと思ったのが大間違いでした。なんと入場規制をしていました。15分ほど待って入場し、出土した柱と、荒神谷遺跡から出土した銅剣、銅矛、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸だけを見るのがやっとでした。しかしながら、圧倒的な数量のそれらは、いろいろな想像をさせてくれて、出展者には申し訳ありませんが古事記よりもずっとおもしろく感じました。出雲大社の巨大な復元模型も、5人の建築史家が5とおりの復元をしたと言うことを知ると、俄然興味がわいてきました。各地にある復元住居なども、同じなのではないかと想像します。

と言うような訳で、写真は、ようやく入ってざっとみて私が出てきたとき撮ったものです。列はますます長くなっていました。
 



2012年10月1日

長い期間が空きました。その理由はずっと後に、もしかしたら語るかもしれませんが、今は今までのように続けます。

芸術家を取り上げるのが続いています。別に特別の意図はありませんし、今回は続きを読んでいただければ おわかりになりますが、技術者のことです。

出張で一関市に行きましたので、一関市博物館厳美渓を見てきました。この両者は歩いて10分ぐらいの距離にあります。厳美渓は以前(といっても40年以上前!)と変わりなく見えました。震災で緩んだのか立ち入り禁止の表示がありましたが。
博物館は、建物は立派で、展示品もよく整理されていますが、私にはあまり興味を引くものがなかったので、早足で通り過ぎました。同時に「歿後70年彫刻家長沼守敬展」を開催していました。
歿後70年彫刻家長沼守敬展ポスター
そのポスターです。
私はこの人のことを知りませんが、一関出身者ということで、作品を見るとなるほどどこかで見たことのあるものもありました。しかし、ここではそのことを語るつもりはありません。ポスターのことです。まだ作りかけのような大きな人物像の向かって右側に立っているのが長沼守敬です。では、左側の像は誰でしょうか。この説明があったので、俄然興味がわいたのです。この像のモデルは、長谷川謹介です。

以前小川勝五郎という人物を調べていたとき、日本鉄道の黎明期、大阪に工技生養成所というものがあり、大学出の技術者が少なかった折、この養成所で技術者教育をしたことを知りました。その卒業生は、養成所の歴史が短かったこともあって、24名です。その一期生の一人がこの長谷川謹介でした。

彼のことは「日本鐵道請負業史明治編」(社団法人鐵道建設業協会、昭和42年12月。前書きは昭和19年9月となっている。大正5年より編纂に着手し、この年ようやく謄写版として完結した)で知りましたが「鉄道先人録」(社団法人日本交通協会鉄道先人録編集部編集、日本停車場株式会社出版事業部発行、昭和47年10月14日)には簡潔な伝記があります。

それによると、彼の生涯は次のようです。
安政2年(1855年)周防国生まれ。明治4年17歳の時大阪英語学校、明治7年鉄道寮傭。通訳、測量手伝いに従事。(この当時はまだお雇い外国人が技術者のトップであったため、まず語学の面から日本人が集められたのです)10年九等技手。工技生養成所が開設されると第一期生となる。この後逢坂山トンネルなどを日本人の手で初めて施工し、柳ヶ瀬隧道を成功させて認めらました。その後欧米各国に派遣されたり、帰国後揖斐川、長良川、天竜川橋梁などを架設しました。
明治25年鉄道局を辞し日本鉄道会社に入り、翌年水戸建築課長となって常磐線などを手がけました。明治32年からは台湾総督府鉄道部技師長、明治41年鉄道院東部鉄道管理局長、大正7年副総裁、大正8年には工学博士となりました。大正10年67歳で死去という生涯に、実に多くのことを成し遂げています、というような人です。

この写真はいつ頃撮影されたものかわかりません。像は明治43年銅像として完成し台北市に設置されましたが、現在は所在不明だそうです。(なお頭部のみの像は東京藝術大学に所蔵されているとのことです)

まあわかったことと言えばこのようなことですが、なぜこんなことを書いたかと言えば、意外なところで以前調べていた人物に巡り会うと言うことに、しかも全く違う分野の(藝術と技術)巡り会いに、ちょっと感動したからです。




2012年5月25日

高橋由一を勉強し始まったのは、「土木學會誌」2001年3月号の表紙の絵を見てからです。それ以前から、有名な「鮭」は知っていましたが、最初に見たのが教科書でなのか笠間の「日動美術館」でなのかは、はっきり覚えていません。ただ、10年ほど前、偶然通りかかった東京藝術大学近くの黒田記念館で、たまたま開館日であり、たまたま展示されていたため、実物を見る機会に恵まれていました。しかし何しろ、土木の絵を描く人などは、この表紙を見るまで全く知りませんでした。

こういうことは不思議なもので、画集や美術の本には土木のことが登場することはまれで、逆に土木の本には画家はまず登場しません。

話は急に飛びますが、最近でも同じ経験をしました。明治鉄道史を勉強していて、工技生養成所卒業生24名のその後を調べていたときのことです。何人か「鉄道先人録」(昭和47年 日本停車場(株)出版部)にも見えない人がいて、岡田時太郎と言う人もその一人でした。同名異人かもしれないがと思いながら何人も追いかけているうちに、牛久の「牛久シャトー」を建築した人に行き当たりました。東京駅や日本銀行で有名な辰野金吾事務所出身の建築家です。

明治の建築写真集などを見ても若い頃の経歴には明治9年大坂造幣寮勤務(文書課詰、貯蔵掛)までしかありません。しかし、詳しくは省略しますが、そのうちに明治13年鉄道省汽車掛という記述を見つけました。これでもう間違いありません。鉄道をやめ、東京理科大学化学実験場工事助手の後、辰野金吾事務所入所、明治21年日本銀行建築調査のため辰野金吾に同行、ロンドン大学に1年間留学、明治38年満州大連に渡り、大連土木建築株式会社を起こすと、までわかりました。

このように、建築史の人は鉄道掛りまではなかなか調べません。だから、言ってみれば文武両道の人の事跡を追いかけるのはなかなか大変なのです。と言うわけで、高橋由一を追いかけ始めました。この人は、有名な割に、私などが手に入れられるような大衆向けの画集などは見当たらないのです。あっても、土木に関係する画はほんの数点で、私の見たいものは掲載されていないのです。それは、三島県令の依頼で東北の土木工事を訪ねたときのスケッチです。
高橋由一展来館記念はがき:「鮭」の切手に当日の消印が押してあります。
今回、東京藝術大学大学美術館で「近代洋画の開拓者高橋由一」展が行われることを知ったとき、これはどうしても行かなければならないと考えました。金刀比羅神社(なぜ金刀比羅神社なのかは、こちらのサイトでご覧ください)まで絵を見に行くのはちょっと大変ですから。

5月4日(金)は予報と異なり雨模様になりました。雨でめげるような私じゃありませんから、久しぶりの常磐線で上野に出向きました。上野は動物園から科学博物館、その他の美術館など長蛇の列でした。藝大美術館に着いたときには開館20分前くらいでしたが、すでに3~40名の方が並んでいました。並ばなくて開館してからでも十分に鑑賞できそうでしたが、雨でもあるので並んでみました。入館券は前日インターネットサイトで印刷してありましたので、すぐに入れると考えました。ところが、しばらくたって後ろを見ると、列が急速に長くなっていきます。と言うような訳で、美術館に並んで入ったのは、「ターナー」展、「ゴッホ」展以来です。

入館するとすぐ写真のはがきをいただきました。知らなかったのですが、来館記念限定品でした(ラッキー!!)。ありましたね、スケッチが。十分すぎるくらい展示してありました。しかもスケッチとそれに基づいて作られた銅版画もあります。これは眼福でした。本当にじっくり見ました。うれしいことに、購入した図録にもありました。明治の土木は人力施工ですが、施工中の絵はさすがにありません。しかし、橋梁も道路もトンネルも、まさに自然の一風景、生活空間の一風景です。インフラストラクチャーという雰囲気はありません。土木の原点ですね。これに比べると、「土木學會誌」の表紙の油絵は、少し人工的な感じが多いですね。家人は、魚や豆腐がおいしそうに(リアルに)描かれているのに感心していましたが。

東京藝術大学には、美術学部建築科という科があってうれしいのです(何が教育されているか知りたいものです)が、いっそどこかの大学に人間学部土木科(土木工学じゃない)を作ってくれないかなと思いました。



2012年3月6日

毎年この事を話題にします。
昨日は技術士二次試験の発表がありました。建設部門は昨年とほとんど変わらない合格率で、12.5%でした。14,352人が受験して1,798人しか合格しませんでした。少し前に一級土木施工管理技士試験の発表がありました。こちらは、20.8%でした。5人に1人ですから、なんだかこちらの方が実態に合っていると思ってしまいます。

技術士の知名度が低いといつも話題になりますが、技術者であれば誰でも持つというくらいにしなければ望めないでしょう。なにも試験を易しくする必要は無いので、試験の内容を変えれば達成できると思うのですが。試験をして、合格率が低い理由は何なのでしょうか。受験者が受験資格を満たすだけの知識と応用力を持ち合わせていないのか、それとも問題が不適切で、受験者の力量の正しい判定を出来ないのか、いつも気になります。しかし、いちいち引用はしませんが、日本技術士会のサイトに掲載されている平成14年度からの合格率を見ると、じわじわと下がっています。

先日、地盤工学会のシールド工法講習会に参加しました。そこで聞いた事実です。以前は(私たちの時代は)担当した現場はシールドばかりという人が多くいました。今は、一生に一度しかシールド現場を経験しないという時代になってきました、と言うことです。シールド工事が少なくなったと言うのが最大の理由ですが、技術者に担当工事の経験が求められることによっていろいろな経験をする必要が出てきたと言うことが理由の様です。人も工事も多かった時代はそんなことは無かったのですが。

しかし、話を技術士に戻すと、それによってある分野を専門として受験した場合、経験不足と判定されるんじゃないかという危惧があります。コンサルタントの世界を私は余り知りませんが、1人でいくつもの科目を受験する方がいるそうです。そうした方は、経験不足という判定を受けやすいのじゃないかと思うのですがどうなんでしょうか。


2012年1月27日

更新を休止してから10ヶ月が過ぎました。昨年3.11の震災は、安易な更新を思いとどまるのに十分でした。ツイッターでつぶやくのとは違い、あるまとまった考えを述べるには、日々の震災と福島発電所事故の報道の洪水で、頭脳の中枢が麻痺してしまっていました。じつに、その日暮らしのほぼ一年であったようです。その途上で、一度は考え方をまとめなければ行けないなと思っていたのは次の事々です。

(1)3.11震災のような(そして阪神大震災のような)地震への備えの根本的な戦略はあるのか。
首都直下M7級地震の発生確率は4年以内が70%という東大地震研チームの試算も発表されていますし、北海道から三陸沖でM9級は3、500年で7回という研究もあります。阪神は火災、今回は津波そして首都直下はその両方かもしれません。東海東南海南海連動もあり得ますし、とてもゆっくりと研究している時間はないようにも思えます。半分現場を退いたような私には、歯がゆく思えます。もっとも私は研究者ではなく施工屋でしたから、どうしてもハードだけに目が行ってしまうことが多いので、注意が必要です。現に技術士の受験指導をしていると、施工関係の受験者はいとも簡単にハードとソフトの組み合わせが必要というような論文を書いてきます。3.11以前ならともかく、今年からはそんな思いつきではだめだと思うのですが。

(2)原子力発電に代わるものは何か。
福島原子力発電所の事故による放射能の拡散とそれによる放射線被害は、当初政府の言っていた意味とは違った意味で、それほど重大な事態を引き起こしてはいないようです。チェルノブイリとは、炉の型も事後の対処も全く違うし、むしろスリーマイル島事故の方が学ぶことが多いのではないかと思います。事故そのものの影響より、あれでアメリカは原子力発電所が建設できなくなりました。日本も当分は同じですね。「脱原発」は事実上来年にも起きます。では、その代わりは?時代を何十年も逆行した生活に戻らない限り、節電では長続きしないのは目に見えています。当初華々しく取り上げられた「自然エネルギー」(原子炉の燃料も人工物じゃなく入るんだけど?)はいったいどうなったのか。そう簡単に移行出来ないのはわかりそうなものだが、当時の総理大臣は、自分のやったことの後始末もしないうちに外国に行って「脱原発活動家」になっていますしね。最も手っ取り早いのは燃料をウラニュウムから別のものに替えることで、LNGがその最有力候補でしょう。しかし足下を見られて高い買い物になるでしょうね。メタンハイドレートの研究は進んでいないようだし。

(3)消費税10%は何のためか。
まだ国会で議論も始まらないのにはや17%でも足りないなんて記事が出ています。足りないなんて、いったい何に使うのか?大方の国民は震災復興でお金が足りないから仕方がないね、と思っているのではないだろうか。確かに、復興の爲だから仕方がないよねと言うような「雰囲気」が醸成されてきているような気もします。本当は違うのにうすうす気がつきながら。これで税を焦点にして選挙しても負けない初めての政権になるかもしれません。この政権は、議事録は作らない(超緊急時ならまだしも、最初作らなかったので今までずっと作らないで済ませてきた疑惑がありますね)ようだから、どうして「10%」という数字が決められたのか(自民党案と一緒では根拠にならない)検証のしようがないですね。

まあ、そのほかこの10ヶ月の内にいろいろたまっていますから、おいおい書きましょう。

時々更新する本欄に補足の意味で、隣に「ツイッター」を表示しました。こちらは、「技術士」としてより、「酔哲」隠居としてのつぶやきが主体となります。今年もよろしく。


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