酔 哲 庵 日 常
                                 技術士のひとりごと
 
更新は随時行います。  

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2017年5月14日

明治20年(1887年)8月19日午後3時頃,本州中央部を横断する継続時間3分あまりの皆既日食があった。明治維新後日本本土で観測された最初の皆既日食である。明治政府はこれに関して官報第1231号(同年8月5日)に,「観象」として次の通り掲載した。

【〇明治二十年八月十九日ノ日食 本年八月十九日ノ日食ハ本邦一般其現象ヲ見得ヘシ就中新潟,福島,栃木,茨城ノ四縣ハ全管内ニ於イテ皆既食ヲ見ルヘク亦群馬,千葉,長野,宮城,山形,石川ノ六縣ニ於テモ管内多少皆既食ヲ見ルヲ得ヘシ而シテ此事タル實ニ希有ノ現象ニシテ天文學研究上所々ニテ之ヲ實驗スルハ緊要ノ件ナレハ内務省ヨリハ該地方ノ郡區役所警察署文部省ヨリ中小學校ヘ左ノ心得書ヲ配付シタリ(内務省)】
時の内務大臣は山県有朋伯爵である。
この中で心得とは,「白光寫圖心得」である。白光とはコロナのことで,管内国民が広く観測するよう奨励し,写生用図紙を配付したのである。心得では,事細かに写生の注意が述べられた。また,官庁・学校は午後1時以降は休業とした。

明治天皇は青山御所内で観測された。福島県白河,栃木県黒磯には,開通したばかりの東北線により上野から臨時列車が運転された。日食観測船「名古屋丸」は,千葉県銚子犬吠埼沖に政府高官を乗せて出港した。アメリカからは当時日食観測の大家とされたトッド博士一行が来日した。

当日の天候は,新潟県では前日豪雨,当日雨を伴う曇り,午後次第に晴れた。福島県・茨城県では午前中晴れであったが午後雷雨を伴う悪天候となった。しかし,所々雲の切れ間があって,広い地域から約70余の観測報告が寄せられたという(1)(2)。

(1)「わが国の科学的日食観測事始め 明治20年皆既日食観測の記録」斉藤国治(天文月報:62-7,1969年 天文学会)
(2)「明治20年(1887)本邦初のコロナ観測」斉藤国治(星の手帳 第14号:1981年秋 河出書房新社)

さて,筆者は小学生時分には天文学に興味があったが,今では天と地ほど離れた土木の世界に身を置いている。

事の発端は,「地図をつくった男たち 明治の地図の物語」山岡光治著,原書房,2012年 を読んだことにある。私は土木屋であることから測量が趣味のようなもので,地図に関する一般向きの本をいくつか読んできた。この著者の本も,「地図に訊け」(ちくま新書 2007年)を読んでいる。

「地図をつくった男たち 明治の地図の物語」は,明治維新直後の測量と地図作りの興味深い挿話をまとめた本で,非常に面白く読めた。ところが,本書95ページに,次の文章があった。

【そのとき明治政府は,同観測を国家事業として取り組み,観測隊の支援や観測機材運搬などのため,上野から黒磯までしか通じていなかった現東北本線を突貫工事で白河,郡山まで延伸開通させたという(同年七月十六日白河駅開業)。】

この文章の「そのとき」が,先に紹介した明治20年8月19日の皆既日食なのである。

それまで,「日本鉄道請負業史 明治編」(社団法人鉄道建設業協会 昭和42年)を筆頭に,明治初期鉄道建設の歴史を勉強してきた私は,この区間が「突貫工事」であったという記述は,初めてだったのである。

「日本国有鉄道百年史」全19巻(日本国有鉄道 1969年~ 成山堂書店 1997年復刻版)は今手元にないが,そのような記事を読んだ記憶はない。「日本鐵道史」鉄道省編 大正10年の上巻第七章の当該箇所のコピーは手元にあり参照できるが,「明治二十年七月十六日第二區線ノ内黒磯白河間開通シ随テ第二區線全通シタリ」(729ページ)とあるのみである。

こうした文章は淡々と事実のみを述べるのがならいであるが,日食のことにも触れていない。ただ,この区間は大宮から那須野間は平坦であったがそれ以北は急勾配であったという記述から,難工事であったことはうかがい知れるが,日食観測に間に合わすために突貫工事とした記述はない。

ふと思いついて「白河市史 下」白河市,昭和46年を入手し,第四章第二節鉄道の開通を読んでみた。

【日本鉄道会社奥羽線は,明治一九年三月宇都宮・白河間を着工,同年八月白河・福島間起工し,二〇年(一八八七)七月一六日に至り,黒磯・白河・郡山間が開通した。】
とあるのみである。博徒の出入りという【なかば「伝説」化した挿話】を載せているのに,突貫工事については一言もない。
なお,当時は国有鉄道ではなく日本鉄道会社が建設していたし,現在の東北線は,奥羽線と呼ばれていた。このあたりの事情は後ほど述べる。後ほどとは,今回を意味しない。

ここにおいて,さて本当であろうか,という疑問が残ったのである。ちなみに,当時の白河駅と現在の白河駅の場所は異なっており,「白河市史」も現在の「白河市史」全10巻都は異なる。

ちょっと調べてみると,「白河皆既日食の碑」にも同様の文言があり,インターネット上には出典を明記していない記述が散見するということが分かった。Wikipedia-白河駅にもそのようにある。中には,上野から観測のための臨時列車が走ったことを持って根拠としているサイトもあった。

「地図をつくった男たち 明治の地図の物語」の文章も「・・・延伸開通させたという」とあり,「白河皆既日食の碑」には「・・・とも伝えられています。」とあるように,いずれも伝聞のような文言ではあるが,出典は明記されていないのが特徴である。

それでは,調べてみなければいけないな,ということで次回に続くとさせていただく。次回がいつになるかは分からないが。




2017年4月16日


     
  写真1 2月28日芽を出す    写真2 4月16日花が咲いた  

 昨年の9月25日に植え付けたチューリップが本日開花しました。特別花が趣味というわけではないのですが,玄関周りがさみしいのではじめたことでもう6年以上になります。

 ほかのお宅ではずいぶん前から咲いていましたが,我が家の花たちは皆遅咲きでやきもきします。そろそろ生け垣の常磐満作も咲き出しました。これも手入れが悪いのか以前よりずっと少なくなりました。いちど全部の植物たちを見直したいのですが,なかなか時間がとれません。犬や猫と違って,植物は季節とともにあるので,一度逃がしてしまうと来年になってしまいます。なんとも。

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2017年1月4日

あけましておめでとうございます。昨年はいろいろな事情からかなり更新が滞ってしまいました。本年はもう少しなんとかしたいと考えています。
   その一環といっては何ですが、こちらでも書いたように、新年早々(2日)笠間日動美術館の佐伯祐三を見に行ってきました。「昭和洋画のパイオニアたち-前田寬治と佐伯祐三を中心に-」です。
2日から開館しているとは考えていなかったので、初日とはラッキーでした。笠間稲荷神社の賑わいとは打って変わって、非常に静寂な中で鑑賞できました。

とはいっても、私は、こうした方面には全く疎く、佐伯祐三はたまたま知っていて気に入っていたのですが、ほかの方たちにはとんと面識がありませんでした。2~3点、見たことがあるなという程度です。

しかしながらお気に入りの美術館があるとすれば、私にはこの美術館で、何度も来ています。
大きく3つの部分に分かれていて、企画展示館と、常設のフランス館、パレット館、そしてその間をつなぐ野外展示場です。パレット館には、この美術館が画廊の主(正確には「公益財団法人日動美術財団」)が開館した縁で、多くの画家の実際に使ったパレットが展示され、なかなか面白い雰囲気です。

カフェも好きで、訪問したときには必ず寄って昼食をとったりします。あまり混み合っているところに居合わせたことがないので、ちょっと心配しますが、雰囲気はよいものです。テラスで竹林などを眺めながらフランスの具象画家アンドレ・ブラジリエ氏のデザインしたコーヒーカップでコーヒーを飲むなどは、ちょっと乙なモノです(急に江戸弁)。ま、私は、アンドレ・ブラジリエ氏のことは全く知りませんが。

佐伯祐三も、一昨年新しくできた「鴨居玲の部屋」の主人公にしても、皆現在の私よりはずいぶん若い年齢でこの世を去っています。そう考えると、私は果たしてこの世に何を残しているのかと憮然となりますね。

何はともあれ、初詣で祐三を見るとは、私にとってのちょっとしたハプニングでした。
 





2016年9月24日

赤れんが建物はこのページでも何度か紹介していますが,最近また訪ねてきました.名古屋市の「名古屋市市政資料館」です.

あいにく雨だったので(そういえば昨年9月福岡市文学館のときも雨でした.)あまりよい写真は撮れませんでした.内部にも入れたのですが(通常は月曜休館ですが,この日は祝日で開館),なんと正面階段の上にあるステンドグラス前で挙式が行われておりました.さすが図々しい私も,ちょっと遠慮して見上げただけで退散しました.なので,今回はあまりよく観察はできませんでした.

あとで調べてみると,ガラス窓や煉瓦など見るべきものがたくさんあったようで残念でした.出張の合間なので思いつきが多く,こんな見逃しがたくさんあります.よく調べてターゲットを絞るべきですね.有名な建物で重要文化財なので,説明はそれらのサイトをご覧下さい.

     
  写真1 名古屋市市政資料館正面1   写真2 名古屋市市政資料館正面2  

     
  写真3 名古屋市市政資料館左側面   写真4 名古屋市市政資料館正面階段室  

当日は台風16号のため,帰りの新幹線が米原と名古屋間で大雨のため一時止まって遅れました.止まらずに走っていれば台風よりは早く関東に着いたのですけどね.






2016年8月22日

もう枯れ始まっていますが,今年は緑のカーテンを朝顔だけで作ってみました.種は昨年の朝顔から採取して置いたものです.昨年は鉢で仕立てたので2,3本でしたが,種はたくさん取れたので,今年はそれを全部まいてみました.窓の前だけでなく生け垣や庭に植木にも乱雑に絡まるようにしました.その結果がこれです.

     
  写真1 6月11日   写真2 7月3日  

     
  写真3 7月18日   写真4 7月21日 咲いた!!  

     
  写真5 7月26日   写真6 8月6日  

反省点
①同じ株から採取した種であったため,咲く花がすべて同じ色であった.遺伝法則を確認したが,少し寂しかった.

②植木鉢が,何かで使ったもの再利用であったため,深さがなく,すぐ水切れになった.出張の際や日照りになった際の水やりが頻繁で困った.とくに渇水で節水のときは遠慮しながらの 水やりで,後ろめたい気持ちが残った.

③向かい側にひまわりを植えたのだが,これが今ひとつ育たなかった.残念.






2016年5月20日

測量の日は6月3日ですが、毎年この日の近くで行われる日本水準原点の施設一般公開(写真1)が、本年は5月18日(水)でしたので行ってきました。

実は2009年5月29日(金)に行われたとき初めて行ったのですが、あいにくの雨であまりよく見ることができなかったのです。今年は前日の雨にもかかわらずよく晴れましたし、ちょうど仕事で東京に行くため立ち寄ってみました。

地下鉄国会議事堂前駅で降りると、ちょうど国会が開会中のせいかそれともサミットのせいか、立哨中の警察官の姿がやけに目立ちました。それと同じくらい目に付くのは、修学旅行の見学でしょうか、中学生の団体が国会議事堂に大勢訪れていた事です。国会議事堂も重要でしょうが、目の前の国土交通省や日本水準原点の見学に、そのうちの何割かを引きつければ、建設産業就業者の底上げも図れるのではないかと思いましたが、ちょっと不純な感想ですかね。

暑いくらいの日差しの中、水準原点の前に行くと、これはどうしたことか、若い人を中心に大勢の人がちょうど説明を聞いているところでした(写真2)。私のような年齢の何人かその周りを取り巻いていましたが、説明を聞くよりは開けられた扉の中を熱心に見ていました。

     
  写真1 水準原点一般公開   写真2 説明を聞く人々  

私は前回見ているので何か変わったことはないかざっと見ていただけなのですが、今回は新知見を得ました。裏側の扉も開いていて「明治二十四年 辛卯五月建設 陸地測量部」と刻印された舟形台石が見えるのですが(先のサイトの写真8)その底面にまで文字がある事は知りませんでした。碑の下に今回は説明が張ってありました。

     
  写真3 舟形台石   写真2 底面に彫られた人名  

今回窮屈な中下側から写真をとり、5名の名前を確認しました。

「参謀總長陸軍大将大勲位熾仁親王 参謀次長陸軍中将従三位勲三等川上操六
陸地測量部長陸軍工兵大佐正六位勲四等藤井包總 陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等田阪虎之助 陸地測量部三角班長陸軍工兵大尉正七位勲五等唐澤忠備」
とありました。

三角科とは三角測量を行う部署です。いずれも日本の測量黎明期に活躍された方々で、陸地測量部についてはこちらに詳しいためリンクしておきます。

この事については国土地理院の説明にもないため、私は今まで知りませんでした。もっとも、測量については水準原点という「点」が重要なので、説明がないのは当然です。下側まで覗いていれば発見したかもしれませんが.。

天候が良かったので、水準原点を見学してから、黒塗りの車がひっきりなしに通る茱萸(グミ)坂、山王坂と坂巡りをして帰りました。





2016年3月19日

最近「地学」に興味をもって、「もういちど読む」シリーズの高校地学などを購入して読んだり、NHKEテレの高校講座「地学基礎」をアーカイブで見たりしています。

私は、会社勤め時代の仕事ではトンネルが専門でしたが、実はシールドや推進や開削の方、いわゆる都市トンネルで、山岳トンネルは手がけたことがありません。ですから、いわゆる土(つち)はそこそこ知っていますが、岩(がん)の方は知識が乏しく、歯がゆい思いをいつもしています。

岩については先日、稲田の「石の百年館」の見学記を掲載しました。よく考えてみると、実に身近に、土と岩の両方にまたがっている、日本で唯一の博物館があるので、うん十年ぶりに出かけてみました。つくば市の産業技術総合研究所内にある「地質標本館」がその施設です。

つくば市には、こちらでご紹介している「地図と測量の科学館」などもあり、こちらは何度も見学(というか勉強)に通っています。しかし、「地質標本館」は久しぶりです。

守衛所に立ち寄ると、当日限りの通行証をもらえます。それを車の前面において「地質標本館」入り口に向かいます。駐車場はそれほど広くはありませんが、当日は外国の方の団体が大型バス2台で来館されていました。
入り口に入る手前のところに、メタセコイアの大木とともに「珪化木」の大きな標本がいくつか展示されています(写真1)。それ以外にも、巨大な水晶(写真2)や、六角形の玄武岩など大型の標本が展示されていてそれだけでも圧倒されます。

     
  写真1 珪化木の展示   写真2 巨大水晶  

写真3が地質標本館の入り口を表紙にしたリーフレットです。中に入ると(もちろん無料です)、正面に写真4の巨大なジュラ紀の褶曲層(宮城県牡鹿半島牧の崎)のはぎ取り標本が見え、ますます圧倒されます。(内部の写真撮影もO.K.でした。)

     
  写真3 リーフレット表紙   写真4 ジュラ紀の褶曲層  

そのほか、東北地方太平洋沖地震で見直された、869年貞観地震津波の堆積物層のこれもはぎ取り標本など、一見の価値あるものばかりです。もちろん、標本の中にはダイヤモンドなどの貴石もありますし、つい最近行われた地学オリンピックで出題された標本などもあります。

また、地質図の読み方など、展示ではなく、実際に手にとって読みたいものもあります。富士山の断面模型などは周囲をゆっくり回りながら見ると時間を忘れます。先の外国人の団体の他に数人の日本人の単独観覧者がおられましたが、富士山で足を止める方が多かったですね。

とにかく盛りだくさんですから、とてもここでは全部ご紹介できません。解説も読みたいのですが、時間もあまりありません。と思って、展示図録がないかと受付の係の方におたずねしたところ、ないと言われてがっかりです。これだけ充実した施設なのですから、有料でよいから展示図録を作るのはぜひお願いしたいところです。(お話の中で、ある出版社から「地質標本館」編集として「地球 図説 アースサイエンス」が出版されていると伺いましたが、それならば同館でも購入できるようにしていただければいいのにと無い物ねだりですか。)






2016年1月18日


寒中お見舞い申し上げます。
今日は首都圏でも雪が降りました。センター試験受験者はかろうじて難を免れましたが、90人以上がけがをしたとのことで、外出の予定のなかった私は幸いでした。

今年の仕事始めは東京での打合せでした。少し時間があったので、前回の続きのような内容になりますが、東京駅前の「JPタワー」に寄ってみました。一階が東京中央郵便局でKITTEと名づけられた商業ビルです。

そこに、入館料無料のミュージアムがあります。JPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」です。

館内は撮影禁止なのでここでご紹介する訳にはいきませんが、内容はとにかく骸骨だらけです。小は雀から大は鯨まで、東京大学の収集した多くの骨格標本であふれています。ワニの剥製も柱の上からつり下がっています。蛇の剥製には「蛇の一種」などという説明も見えます。双頭の亀の剥製もいます。教授が宮中に呼ばれたときの人力車の車夫に渡す券まであります。最先端の宇宙線(ミューオン)観測機器も置いてあります。

JPタワーの2階と3階に渡って、言葉は悪いですが種々雑多な展示が続きます。見て回るのにたっぷり1時間以上かかりました。図はその案内のリーフレットです。東京においでの際は、ぜひお寄りになるとよいと思います。骸骨の苦手の方はよく考えることをおすすめしますが。

     

もう一つの絶景は、屋上庭園です。庭園には芝生があるだけですが、東京駅を上から見下ろせる絶好の撮影スポットです。この日は日が陰った時間だったのですが、それでも東京駅の全貌が眼下に見えます。同時に、東京駅ホームの一部も見渡せ、北陸新幹線のしっぽが見えました。


     
  写真1 東京駅   写真2 北陸新幹線  

何はともあれ、本年もよろしくお願いいたします。




2015年10月31日

今回はちょっとした道楽。

私は、ポスト型はがきのコレクションをしていて、全国各地の郵便局で購入しています。ルールが一つあり、郵便局はたくさんありますから、全部集めるのは無理で、仕事上の行き先の近くで、郵便局名の入ったものを集めることにしています。中央郵便局という名前だけは別格で、少し遠くても訪ねています。今数えましたら60数枚になりました。これは他では購入できず、必ずその郵便局に行かなければなりません。
同じような趣味で、各地の郵便局に1,000円を貯金して通帳を作るというものもありましたが、それよりは安上がりです。

昨今、郵便局に行くと、スティックのりなどいわゆる郵政グッズがたくさんあります。私も当初はポストの置物(貯金箱)を集め出したのですが、保険に入らなければ手に入らないものなど制約が多く年齢的に無理なので数個で頓挫しました。その代わりに始めたのがポスト型はがきコレクションです。郵便局の方の話によりますと、局名にひらがなの入ったものなど、何らかの絞り込みをしてコレクションしている人もいるようです。

ここまで書いて肩すかしのようですが、ポスト型はがきの紹介は一つだけにして、今回は収集途上で出会った、変わったポストをご紹介しようと思います。

     
  写真1 東京駅ポスト   写真2 青森市ねぶたポスト  

写真1は、東京駅ポストです。丸の内中央口の改札内にあって、復元された東京駅を上にのせています。投函口は二つあり、左側の投函口に投入すると丸の内の風景が入った消印を押してくれます。私はまだ実行していません。このポストは待ち合わせの目印にもってこいのようで、写真を撮る際、人が入ってしまうので苦労しました。

写真2は、青森市の「青森県観光物産館アスパム」の正面入り口に設置されたポストです。あたまに勇ましい人形をのせています。これは「青森ねぶた」(弘前などでは「ねぷた」と言う)をイメージしたもののようです。坂上田村麻呂でしょうか。この写真を撮影したのは、アスパムの開館前でしたが、同じようにカメラを構えた女性がいて、同好の方はいるもんだなと思ったものです。

     
  写真3 坂本龍馬ポスト   写真4 阿波踊りポスト  

写真3は、高知市の「龍馬郵便局」にあるポストです。ご存じ坂本龍馬の名前を冠した郵便局にあるポストです。写真3の右側に銘板がありますが、そこには次のように書かれています。
【龍馬ポスト この特殊(装飾)ポストは、平成11年11月15日に、ふるさと切手「桂浜と坂本龍馬」の発売を記念して設置しました。ポスト上部の記念モニュメントは、「坂本龍馬」に「桂浜の波」と「地球」を組み合わせ、坂本龍馬の偉大さを表現したものです。】

写真4はご存じ阿波踊りポストです。最近では全国で踊られていますが、本場四国徳島にありました。

     
  写真5 山口市スカイロードポスト   写真6 名古屋日泰寺近くのポスト  

写真5は、今では珍しくなった丸形ポストです。ペンキ塗り立てのようにきれいな姿です。これは山口県山口市の駅前通り(スカイロード)でみつけたものです。同じく写真6も丸形ポストですが、こちらは愛知県名古屋市千種区山門町の日泰寺(写真中央奥)に至る通りにあったものです。ここの最寄り駅は名古屋地下鉄東山線の覚王山駅です。この駅は、日本で最初にシールドで施工された地下鉄の覚王山トンネルに当たります。ポストとは難の関係もないですが。別件でこのあたりを訪問していますので、こちらをご覧下さい。駅ではない近代土木遺産も近くにあります。

 
 写真7 龍馬郵便局ポスト型はがき    

写真7が、龍馬郵便局の局名入ポスト型はがきです。人の名前の付いた郵便局は他にありません。地図で見つけたときは半信半疑でしたが、行き着いたときは意外に小さな郵便局で拍子抜けしました。

以上、鉄道と並ぶ私の道楽、郵便ポストでした。ポストについては郵政博物館のこちらのページがおすすめです。








2015年10月10日

連続したついでに今回も赤煉瓦ネタで行きます。今回は九州大分県大分市の「赤れんが館」です。酔哲庵としてはここまで赤煉瓦に入れ込むつもりはなかったのですが、行く先々でであうものですから、いまや赤煉瓦を訪ねて歩き回っている日常です。

     
  写真1 赤れんが館(中央通り向側より)   写真2 
赤れんが館入り口(中央アーチ上に「赤れんが館」プレート)
 

この建物は旧二十三銀行の本店だったもので、現在は大分銀行のローンプラザとして現役だそうです。外観は非常にきれいで新しい印象ですが、空襲により内部は消失しての再建で、外壁だけが残ったそうです。大分市内の明治から大正期の建物は、多くが空襲によって破壊されたため、明治期の洋風建築として非常に貴重な存在となっているそうです。これも辰野・片岡建築事務所の設計で、国の登録有形文化財という点は、これまで何回か訪問している赤煉瓦と同じです。赤煉瓦は英国からの輸入品で、白い御影石による帯線が印象的です。詳しい説明はリンク先を参照いただくとして、私の撮影した写真を何点か掲載します。ちなみに、こちらの日本赤煉瓦建築番付では、西前頭41枚目になっています。

     
  写真3 向かって左に回り込み   写真4 赤れんが館裏門(?)  

     
  写真5 市民にも公開   写真6 写真4の反対面。これで一周  

次の訪問先では、何か今までに無いものを見てきたいと思います。日常が旅になってしまっています。




2015年9月22日

秋のお彼岸、シルバーウイークのただ中ですが、出張や授業の準備が詰まっています。なかなか思うようには行かないものですね。そこで(?)今回も前回と同じく赤煉瓦でいこうと思います。

赤煉瓦の建物はこちらのページで東京と東北、北海道を訪問しました。東京駅は本欄この回でも訪問しています。東京駅の設計で名高い辰野金吾工学博士ですが、今回の訪問は同じ辰野の設計(辰野片岡建築事務所)による建物で「福岡市文学館」です。

     
  写真1 福岡市文学館全景   写真2 重要文化財の表示  

一見して同じような外観であることが解ります。しかし、むしろ岩手県盛岡市の岩手銀行旧中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店。現在は岩手銀行支店業務を終え改修工事中。2016年一般公開予定)に、面影がうり二つという気もします。これらの意匠は、辰野博士がロンドンに留学していた19世紀末にイギリスで流行したクイーンアン様式の応用だということで、「辰野式」と呼ばれているそうです。私は建築史については門外漢なのでどなたかの受け売りですが。

ということで調べてみると、「福岡市文学館」は1909年(明治42年)に旧日本生命保険株式会社九州支店として竣工していますが、岩手銀行旧中ノ橋支店は1911(明治44年)竣工、東京駅は1914年(大正3年)の竣工ですから、この建物が先輩ということになります。いずれも国の重要文化財であることは変わりません。

     
  写真3 玄関   写真4 内部  

内部に入ってみると、天井は高いのですが一つ一つの部屋は少し狭く感じます。特徴的と感じたのはもう一つ、階段が鉄製であることです。この階段の手すりは、太平洋戦争中に正面玄関鉄扉などとともに金属供出されていましたが、1972年(昭和47年)歴史資料館として使用(1969年(昭和44年)土地建物ともに福岡市に譲渡されています。)するため復旧されたと解説にあります。

     
  写真5 天井   写真6 階段  

訪問した当日は、年配(自分もそうですが)の方が何組かいらっしゃっていました。以前はここにかの有名な国宝金印があったそうですが、現在では福岡市博物館に常設展示されているそうです。残念ながら今回の訪問では出張の合間なので(いつもそうですが)見る時間を取ることができませんでした。次回の訪問ではぜひ実見したいものです。そして金印発見の地にも行きたいものです。







2015年8月21日

明治や大正時代の赤レンガ建物についてはあちこち何度か訪問していますが、今回はその保存方法がちょっと変わった事例です。先日見てきましたのでご紹介します。

石川県金沢市は、北陸新幹線の開業で賑わっていますが、皆さんのお目当ては巨大なオブジェ(?)のある駅や兼六園などかもしれません。また「金沢21世紀美術館」かもしれません。新シリーズのNHK「ぶらタモリ」でも取り上げられていました。しかし私の目的地は「石川県立歴史博物館」です。「金沢21世紀美術館」の近くにあるのですが、赤レンガの地味な建物ですから観光客もごく少なく、ゆっくりと見て回れました。リンク先には動画での紹介もあります。

     
  写真1 石川県立歴史博物館入口   写真2 石川県立歴史博物館入場券  

この建物3棟は旧陸軍第9師団の兵器支廠で、現在の第3棟(加賀本多博物館)が最も古く明治42年(1909年)第5号兵器庫として建てられたものです。続いて大正2年(1913年)に第6号兵器庫(現在の第2棟)、同3年(1914年)に第7号兵器庫(現在の第1棟)が竣工しています。「石川県立歴史博物館」として利用するに当たり、外観は創建当時を復元し、内部はすっかり作り替えるという手法でオープンしています。

     
  写真3 石川県立歴史博物館全景   写真4 石川県立歴史博物館断面図  

写真3は同館内で紹介している動画の中から全景部分を複写したものです(画面をカメラで写した)。写真4は同じく断面の説明の一部です(3棟とも異なる方法で保存)。最近は重要な歴史的建物についてはこのような手法がとられることが多くなりました。これらの建物は平成2年(1990年)には国の重要文化財に指定されています。私の見たところ、内部の展示物は「歴史博物館」というには少し貧弱に思えました。考えるに、重要な美術品などは加賀本多博物館(写真3の3棟のうち一番奥の建物)などに所蔵されているのではないかと想像します。残念ながら興味の対象ではないので入館しませんでしたが。

     
  写真5 石川県立歴史博物館外観   写真6 石川県立歴史博物館一階天井構造復元  

引用だけでなく実際に撮影した写真も掲載します。写真5は外観、写真6は一階部分の天井(2階の床)で内部の構造を一部復元してあるところです。

8月ですから、この第9師団という旧軍について少し調べてみました。ここに書かれたとおり、精鋭といわれたのは日露戦争の戦いぶりからで、太平洋戦争ではその配属先の関係で戦うことなく終戦を迎えています。

ところで、金沢に行ってみると、近代化された街のなかに実に古い建物が見られます。これは、先の大戦でアメリカ軍の空襲をうけなかったからだと考えられます。空襲被害については総務省のこのページで見ることができますが、金沢市については載っていません。新潟市についても、よく、原爆目標だから空襲はなかったといわれますが、このサイトを見ると新潟港への機雷攻撃などがあり皆無という訳ではなかったようです。

敗戦から70年も立つと、旧軍のことを実際に知っている人は少なくなります。べつに戦争賛美とか懐古とか言うわけではなく、日本史の一環としてこの時代の歴史を知る博物館が欲しいものです。靖国神社の遊就館がありますが、神様ではない部分のことをきちんと知りたいと思いますね。何しろ国立の歴史民俗博物館は、千葉県の佐倉市に1983年開館するまで全くなかったのですからね。





2015年7月12日

日本の歴史を勉強していると、稲作開始のところで必ず出てくる遺跡が静岡県静岡市にある登呂遺跡です。

1943年(昭和18年)、登呂の軍需工場建設現場で発見されたこの遺跡は、多くの人々の適切な判断から、戦時中にもかかわらず発掘が行われ、多くの木製品が出土し、さらに水田跡と考えられる杭列も発見されました。

戦後になっての再発掘では、「今井登志喜氏(東京大学)・八幡一郎氏・大場磐雄氏(國學院大学)・駒井和愛氏(東京大学)・杉原荘介氏(明治大学) ・島村孝三郎氏(東亜考古学会)が主要メンバーとなり、人類学・地質学・動植物学・建築学・農業経済学などの各分野の学者達が これに加わり、日本で初めて各学問が連携した総合的、学際的研究が行われることになりました。」(登呂博物館ホームページより) この発掘が日本考古学協会発足の契機となったこともよく知られています。

どちらかというと、遺跡の重要性もさることながら、戦後の自由な実証的な歴史学・考古学の出発点としての位置づけのほうが、この遺跡を有名にしたのだといえます。その後何度かの発掘調査により、当初の見解は幾分修正されてきましたが、基本的には水田跡に土留めのある遺跡という性格はそのままです。すぐ近くにある東名高速道路も、遺跡の破壊を最小限にとどめるため高架になったといいます。

たまたま静岡市に仕事がありましたので、見学に行きました。静岡駅からバスで10分ほどです。登呂遺跡行きに乗ると終点が遺跡ですが、その一つ前の「登呂遺跡入り口」というバス停で降りて400mほど歩いてみました。現在でもこのあたりは「登呂」という地名で、平坦な地形がひろがっており、ほとんど住宅街の様相です。遺跡は全体で7ヘクタールあるとのことですが、現在では遺跡はすべて埋め戻されていて、見ることのできるのは復元住居や水田です。

     
  写真1 登呂遺跡全景   写真2 復元住居  

写真1は、遺跡の全景で、復元住居群の左手に見えるのが博物館です。写真2はその復元住居で、中にも入ることができます。左の高床式の建物は倉庫だと言うことです。ほかに祭殿とされた高床式建物もあります。

隣接した登呂博物館に入ると、最初の発掘当時の様子を知ることのできる新聞記事や実際の記録も有り、また発掘された木製品などを見ることができます。当日は平日と言うこともあり、見学者は少なかったのですが、小学生の団体が来館されていました。登呂遺跡については、論文も多いのでしょうが一般向け書物もあります。

     
  写真3 現在の水田   写真4 入館券  

写真3は、現在の水田で、稲が植えられていました。写真4は入館券です。

博物館で売っている「特別史跡登呂遺跡」(平成22年12月28日静岡市教育委員会発行)を購入して読みましたが、よくまとまっていて全体を知るにはよいものだと感じました。何より27ページからのつぎの一節が、私のように高校時代の日本史の勉強で止まっているものには新鮮でしたので引用しておきます。

「登呂遺跡についての理解が、再発掘調査によって大きく変わった点は、次のようにまとめられます。
① 登呂遺跡の存続時期は、同一土器型式内の短期間ではなく、弥生時代後期初頭から古墳時代中期まで途中断絶はあるが長期にわたること。
② 水田域の杭打ち畦畔は、洪水後の復興時のもので、居住域の建物遺構よりも新しい時期のものであること。建物と同じ時期の畦は盛り土畔。
③ 登呂遺跡の水田は小区画がされていて、また深田(ふかだ)ではないこと。
④ 登呂川や森林跡などの環境遺構は、時期や性格づけに誤認があり、周辺環境を正しく示していないこと。」







2015年6月11日

仕事でいつも通りかかるのですが、あまり立ち寄ったことがないので気になっていたのが、東京都芝公園にある浄土宗大本山増上寺です。雨の一日、徳川将軍家霊廟が見学できると言うことなのでちょっと立ち寄ってきました。増上寺のことは、NHKの「ブラタモリ」前シリーズで山門と焼けてしまった二代秀忠公の霊廟の回をみて、面白そうだとは思っていたのですが、勉強不足で、歴代の将軍や正室側室が同じところに埋葬されていることは知りませんでした。

広大な増上寺も、昭和20年3月10日の東京大空襲で北廟が被災、続く5月25日に南廟が被災してからしばらくは戦前の国宝指定も解除されそのままになっていたようです。昭和33年からの文化財保護委員会許可による学術調査を経て墓所が一カ所にまとめられたものが現在の霊廟だそうです。その間には東京タワーや東京プリンスホテルなどが境内に立地するようになったのでしょう。

 
 山門(後ろに東京タワーが見える)  霊廟拝観券 霊廟入り口(旧 六代家宣公(文昭院殿)宝塔前中門

山門は有名な三解脱門で、この写真は別の晴れた日の撮影です。先の「ブラタモリ」では、現在一般には入れない内部にまで特別許可で入っていましたが、こうした点はうらやましいですね。当日は雨のため撮影を断念してしまいました。
徳川将軍家霊廟は、拝観料をお支払いして写真の門の横から入ります。この門は、元、六代家宣公(文昭院殿)宝塔前中門だそうです。

   
 霊廟内部

中に入ると意外に狭い場所で、写真がその全景です。写真では各宝塔の前に立つ石灯籠が邪魔をしてよくわかりませんが、説明図によると、向かって正面右が二代秀忠公夫妻の石塔、左は六代家宣公夫妻の青銅塔です。右側には奥から七代家継公石塔、九代家重公石塔、十二代家慶公石塔があります。また、向かって左側は奥から十四代家茂公石塔、静寛院和宮青銅塔、将軍歳暮側室合祀石塔となっています。

有名人のお墓を巡ることを「掃苔」、今風にいうと「墓マイラー」などと言ったりします。別に私の趣味であるわけではないのですが、どうしても現代まで残っている遺跡の多くは「お墓」になってしまうのはいかんともしがたいことです。

     
  二天門   右「多聞天」、左「広目天」  

ここから少し離れた東京プリンスホテルの前には、写真のようななんとも古色にあふれた門があります。これは七代家継公の旧霊廟の「二天門」で国の重要文化財です。古色と見えたのは空襲による焼け残りのあとなのだそうです。なんともはやですね。二天とは「多聞天」と「広目天」で、近寄ってみるとうっすらと拝見できます。
最近また前を通ったら、宝物展示室ができてオープンしたとありましたので、近いうちにもう一度いきたいと考えています。


この回で訪問した「松江城天守閣」が、5月15日、文化審議会(宮田亮平会長)により国宝に指定するよう、下村博文文部科学相に答申されました。よかったですね。




2015年5月5日

連休の1日を茨城県フラワーパークに行ってきました。何度か行ったことはあるのですが、バラには少し早く、家族ずれで混み合う連休時期にはいったことがありませんでした。また、ここには展望塔(右の写真の山の頂上)があるのですが、それにも登ったことがなかったので、登ることを目的に出かけました。

 
   入園券  フラワーパーク入り口

朝日トンネルを通って到着すると、なんと10:40頃なのにフラワーパーク前の駐車場は満車で、少し離れた無料駐車場も満車寸前でした。
良く晴れていたからか、園内には大勢の人が来ていました。前回来たときはおそらく2年ほど前で、その時との相違点が感じられました。ひとつは、外国人の家族ずれが多いこと、もう一つは高齢者の姿が多いことでした。先日、新聞で、園内周遊車が運行をはじめたと読みましたが、これも高齢者が多くなったからではないかと思いました。

     
  フラワードーム   園内周遊車  

私もその仲間なのですが、ここは若い人に負けまいと徒歩で展望台まで行くことにしました。途中、シャガの群生地を視ながら、そう急でもない(他にも登り口があるのかどうかわかりませんが)山の斜面を登りました。

     
  シャガ   シャガの群生地  

展望塔からは、目の前に筑波山、遠くは水戸の県庁ビルまで見えました。子ども達は展望塔の階段を駆け上がり駆け下りていましたが、なにぶん高所恐怖症気味の私にとっては、こうしたむき出しの展望塔は得意ではないので、少々腰が引けました。新潟市の朱鷺メッセにある展望室は地上約125mですがガラス張りですし、札幌のJRタワー展望室地上約160mも登りました。しかし、高さ20m、海抜約120mのむき出しの迫力はまたちょっと違います。何はともあれ、あまり花などに縁も興味もない私ですが、下りてきて牡丹園や藤棚を見て回り、久しぶりに活字以外に親しみました。

     
  筑波山   左フラワードーム(県庁は見えない)  

帰りにはまた朝日トンネルを通り、近くの小町の館に立ち寄りましたが、依然として小町の墓は非公開になっていて残念でした。






2015年2月26日

なんとこれが本年最初の「日常」です。かなりサボってしまいました。

少々前になりますが、年明け早々に、東京駅ステーションギャラリーの「東京駅100年の記憶」展を見て来ました。

   

展示されている多くの模型や絵画などはそれなりにおもしろかったのですが、全体が駅舎だと言うことで、いわばグランドラインより上に限っての展示でした。

     
  写真1 日本技術士会の見学会(2012年4月18日)   写真2 東京駅の旧基礎杭断片  

実は、日本技術士会の見学会(2012年4月18日)で、工事中の東京駅を見学しました。なんともはや、この時は何かの都合で駅舎の中には入れず、外から見ただけでした。説明会ではスライドを使って丁寧に工事全体の解説があったのですが、どうも私の興味からは外れていました。というのも、この時もいかに往時の建築を復原(復元ではないことを強調)するかと言うことに主眼が置かれていたためです。

私の興味は、地下にありました。どなたかが、地下通路はどうなったのかと質問すると、説明役の方が言葉を濁していました。そこまでは我々は関知しないとかなんとか・・・。

それは、駅舎と同時に造られた赤煉瓦の地下通路で、東京中央郵便局とを結び、昭和53年まで郵便業務用の運搬通路として利用されていたといいます。「赤煉瓦通路」と呼ばれ、ネット検索すると平成3年には「赤煉瓦通路 記念入場券」が発刊されているというのですが、このページなどを見てもはっきりしません。なんでも、現在では一般の人ははいれず、車いすの方だけが使用できるんだとか。先のページでは見当たりませんが。

しかし、私にとって今回の「東京駅100年の記憶」展で見たかったものは、技術士会の見学時に写真2のようにほんの切れ端だけ見ることができた松杭でした。駅長室には飾ってあると言うことですが、当然ながら私には入って見ることはできません。貴重な杭ですからどこかにあるのではないかと思われますが、まだたどり着いていません。

旧丸の内ビルディングの基礎も、柱一本に付き数十本の松杭が使用されたといいますが、東京駅の松杭の使い方はどうもそうした使い方ではなく、ベタ基礎の下に、爪楊枝の束のように打ち込まれていたようです。明治時代の鹿鳴館や帝国劇場などもそのようでした。

今、ここまで書いてきてもう一度「東京駅100年の記憶」展図録を見直しました。先述のように、この展示会には、地下に関する事項は一切ありません。図録にももちろんありません。何かの意図を持って、G.L以下はふれないようにしたのかと思われるほどです(このあたり陰謀論めいてきてはいけないので止めます)。

当節はやりの日本のお城めぐりなどでも、あまり話題にはなりませんが日本の明治時代までの建築にはお城も含めて基礎杭というものはありません。あの頑丈そうなお城の石垣も、単に石を積み上げただけです。三内丸山遺跡の巨大な建造物も、出雲大社の巨大な坂道(?)も、基礎杭はありません。柱が地中に刺さっているようなものです。橋も橋脚がそのまま伸びて河床に到達している(橋杭と言いました)だけで、橋脚の下に基礎というものは無かったのです。ですから洪水になって上流から船や倒木が流れてくると簡単崩壊してしまいました。江戸時代大きな川に橋が架けられていなかったのは、政策と同時に頑丈な橋脚を作る技術が無かったことも理由です。に明冶になって鉄道橋梁が架設されるようになると、御雇外国人の指導で基礎が施工されるようになったのです。

と言うわけで、基礎という概念は近代日本のものなので、もう少し考えてもらえたらなあ、と思った次第でした。







2014年12月27日

今年もあと僅かとなりました。かなり忙しい日々を過ごしましたので、このサイトもコラムもずいぶ ん更新の少ない一年となってしまいました。

今回の旅は、またまた東北で、秋田市です。このページで東北 にある日本最初の水力発電所が今も現役であることを紹介しましたが、今回も同じようなもので、何 度か尋ねて行きたかった場所に、漸く行くことができました。秋田市の八橋油田です。

日本で現役の油田は北 海道から新潟県にかけていくつかありますが産出量は少なく、国内消費量全体に占める量は0.4%に過 ぎないのだそうです。八橋油田も石油会社の敷地内にありますから、外から眺めるだけでした。もし かすると見学のルートがあるかもしれませんが、短時間の逗留でしたので動画だけを撮影してきました。サッカーロッド・ポンプというのだそうですが、頭の部分は馬の頭のようですが調べるとやはり「ホースヘッド」と呼ばれているようです。

今回はちょっとめずらしい風景ですので、動画をご覧ください。






2014年9月30日

私が鉄道史の勉強をしているのは明冶の30年頃まで、つまり日清戦争が終わったあたりまでですが、その関連で八甲田山雪中遭難事件にも興味があります。新田次郎原作の「八甲田山死の彷徨」とそれを原作とした映画「八甲田山」(1977年)は、50年も前の小説と映画ですが、今でもよく憶えています。今年も青森市に仕事がありましたので、昨年の「三内丸山古墳」に続いてすこしだけ時間を割き八甲田遭難ゆかりの地を寄り道してきました。と言っても、八甲田まで行く時間は無かったので、幸畑(こうばた)旧陸軍墓地を見て来ました。

目的地まで青森駅からバスで30分程度ですが、途中青森高校の前を通りました。この事件のとき青森第5聯隊の衛戍地があった処です。(同校ホームページに「昭和21年6月旧歩兵第5聯隊兵舎を校舎(筒井校舎)として使用。」とあります。)

幸畑旧陸軍墓地は八甲田山で遭難した将校下士官兵のために造られた墓地です。現在は軍や自衛隊とは関係なく青森市の管理になっています。資料館も立派なものが建てられています。
(ちなみに青森歩兵第5連隊は今、陸上自衛隊東北方面隊第9師団所属第5普通科連隊になっていて、同じ青森市内にあります。ここの「防衛館」(青森駐屯地の中にある資料室。旧第5連隊の本部の一部を移築したもの。)の2階の一室が「雪中行軍資料室」となっている。入館無料だが見学には事前予約が必要ということです。)

幸畑旧陸軍墓地の境界標 八甲田山雪中行軍遭難資料館

映画ではみて知っていましたが、実際に陸軍墓地に足を踏み入れると、何ともいえない感慨がありました。向かって正面に幹部級の大きな墓標があり、左右に下士官兵の墓標が並んでいます。写真の通り整然と墓標が並んでいるところはアメリカのアーリントン墓地を思わせます。

           
  准士官・下士官・兵の墓標(1)   准士官・下士官・兵の墓標(2)

しかしながらよく見ていくと前列と後列とでは墓標の大きさが微妙に異なっています。つまり階級の順になっているのです。アーリントン墓地については知りませんが、なるほどね、という感想を抱きました。八甲田山雪中行軍遭難事件についてはいろいろなサイトがあり、ここでは触れません。

しかし、二つの一般的な誤解だけは書いておこうと思います。その一つは、新田次郎の小説はあくまでも小説で、ノンフィクションではないこと(いろいろありますが、両聯隊は全く無関係に雪中訓練を計画したこと、従って両指揮官(映画では高倉健と北大路欣也)は全く知り合いではなかったなど。)、もう一つは山口少佐が遭難後拳銃自殺をしたとされていることで、これは近年の考証により本人の手は凍傷で拳銃を握ることは不可能とされています。記念館の掲示には「軍によりクロロフォルムで謀殺された」という説があるなどの意味のショッキングな記述もありました。

墓地全体はよく手入れがされ、私が訪問したときも一人が草刈りをしていました。あとで記念館に入り職員の方のお話を聞いたところ、職員の方だと言うことでした。そもそもこの施設は青森市のものですが管理は一般財団法人青森市観光レクリエーション振興財団が行っています。

最近ではこうした公的施設に広がっている管理者の外部委託ですが、中には自治体直営時より見違えるほど活き活きとしている場合があります。ここの施設も、リニューアルは平成16年と新しいせいかかなりよく管理されているような印象でした。この事件より少し後のことですが、同じ新田次郎の原作で映画化されたものに「剱岳 点の記」があります。こちらの方が私の職業にぐっと近いのですが、世間の評価とは違い、あまりよいできの映画とは思われませんでした。(こちらについては別の機会に書きます。)


100年以上たつ旧軍の施設がこうして非常にきれいに保存されているのを見ると、異質な空間に入り込んでしまったような気がした訪問でした。






2014年8月2日

1964年におきた新潟地震は、アパートが転倒したり、昭和大橋が落橋したりした写真がひろく報道されるなど、大変な被害が記憶にあります。まるで空襲のように高く登った火災の煙もありました。M7.5、14人の死亡者を含む330人の死傷者という規模は、その後起きた阪神淡路大震災や、記憶も新しい東日本大震災に比較すると小規模に見えますが、地盤の液状化や地盤の側方流動という現象が、広く一般に知られた初めての災害でもありました。

私は、以前に勤務していた会社の同期に新潟出身の者がいて、良くその惨状についてを聞いたものです。このたび、仕事ではありますが当地を訪問することになり、ざっと下調べの途中、新潟市歴史博物館で「新潟地震展 体験、記録、復興の50年」(会期:2014年 6月14日(土)~8月24日(日))が行われている事を知り、時間を割いて見に行きました。

     
  観覧券 「新潟地震展 体験、記録、復興の50年」図録表紙  

新潟市歴史博物館は「みなとピア」といい、敷地内には、明治2年に建てられた旧新潟税関庁舎が残っています。これは、明冶の開港5港当時の税関として現存する唯一の建物と言うことです。また、旧第四銀行住吉町支店建物が移築され、内部の一部がレストランとして営業しています。これは、大正15年5月に起工され、昭和2年10月に竣工した建物を、移築不可能な部分をのぞき解体移築したものです。(詳しくは同博物館のサイトをどうぞ)

この博物館には昨年も来ていて、旧税関や旧第四銀行はその時見ていますので、今回は「新潟地震展」に的を絞りました。展示で眼を引いたのは、写真の多さです。それも、個人のアルバムに貼り付けたままの、現在のL版よりずっと小さかった写真を、アルバムに貼り付けたまま展示してあるのが印象的でした。図録にもあるように「一般家庭にカメラが普及し始めた」時代であったことの証明です。また、第四銀行や新潟日報社によって絵はがきが発行されていたことも印象的です。「主に、新潟から遠方の知人に状況を伝える際に使われた。」とあります。

信濃川を溯る津波、石油タンクの火災、倒壊して玉石による直接基礎部分が見えるアパート、落橋の空中写真など、見た記憶のある写真もありました。被災者名簿や炊き出しの記録など、無数に残る手書きの記録紙には圧倒されました。小学生の文集や版画などは「市内の各学校では新潟地震の体験を文集にしてまとめた。記録を残し、救援者に体験を伝える事で、児童・生徒たちが気持ちを整理できる様に意図された指導だった。」と言うことです。救援に駆けつけた名古屋市水道局の撮影による映画も貴重なものだと思います。

今になってみると、その後の中越地震、阪神淡路大震災、東日本大震災に比較して、何となく牧歌的な様子がうかがえると言ったら不謹慎でしょうが、50年たつと、リアルな面がすこし背面に交替するのも事実でしょう。新潟市は、市内に写真のような表示がある事でもわかりますが、市域が海抜の低い土地です。秋田市にも同じような表示がありました。

     
  新潟市(右奥の建物が「新潟三越」)   秋田市(正面奥の建物は秋田県庁)  

こうした場所での地盤の液状化などの被害軽減は、かなり難しいということは、東日本大震災で実感されましたから、来たるべき東海・東南海・南海地震では、十分な考慮が必要でしょう。新潟地震から50年と言うことは、学生時代をも含めると、私はほぼ同じ時間を土木と共に活きてきたことになります。

閑話休題。
本日と明日は、今年度の技術士二次試験日です。強烈な暑さで、受験者はかなりまいっていることでしょう。私が受験した最初の頃は、会場になる大学の教室にクーラーの設備はありませんでした。解答用紙が汗でぬれ、鉛筆の文字がにじんだことを覚えています。3回目の頃には、今度は寒いくらいの教室になって、外との気温差に体調不良をきたしそうでしたが。しかし、それらももはや想定内です。実力発揮を願っています。






2014年5月7日

水戸線の稲田駅に隣接して「石の百年館」が今年3月にオープンしました。笠間市稲田はこちらで訪問した親鸞聖人の西念寺が有名ですが、数々の建築物に使われている花崗岩「稲田石」の産地としても有名です。その「稲田石」についての資料が収納されていると言うことなので、これは是非とも訪問せずにはなるまいと思い、GW連休の一日、車を走らせました。

高速道路の渋滞は目に見えており(とくにこの日は朝下り線で事故渋滞があった)、また笠間市では「陶炎祭(ひまつり)」が行われていて、何年か前に市内の大渋滞に巻き込まれましたので、勝手知ったる下道を北上しました。

筑波山の脇を過ぎ、桜川市真壁地区を過ぎ、雨引山脇を過ぎ、順調に到着しました。

 
  右の建物が「石の百年館」。左は水戸線稲田駅 リーフレットの表紙

新しくなった稲田駅と同じようなモチーフの建物で、外観はなかなか良いのですが、想像していたよりは小ぶりでした。入場料と駐車場料金は無料で、写真のリーフレットをいただきました。
予想はしていましたが、人影はまばらで、私が見学していた間に来館者は私を入れて3組だけでした。中は狭いなりに工夫されており、全て実物の標本が展示され、中には日本各地の花崗岩のサンプルだけでなく世界のサンプルも有り、マグマとの接触断面など地学の教科書で知っているだけのものの実物もありました。私は山岳トンネルを手がけたことはないので、岩石についての知識は、まあ高校地学程度しか持ち合わせていませんが、それでも展示の説明を読んでいると、私の時代とはいくつかの用語が違うことに気がつきます。大きな点では「水成岩」という用語は今ではありません。寄ってきたる所以が水であろうが火山であろうが、堆積する事によって出来た岩は「堆積岩」という分類用語になっています。

科学的な興味だけでなく、もう一つの興味は、いかに稲田が石の町であるとしても、なぜ「石の百年館」が稲田駅に接して建てられたかと言うことでした。もっと「石切山脈」に近い場所であれば、できれば石切山脈が見えるところにあれば、観光資源としてずっとおもしろいことになったであろうと思いました。事実、旧「石の百年館」は、1995年から2010年閉館するまで民間の会社が運営し、もっと石切山脈に近いところにありました。

水戸線(水戸鉄道線)は、明冶22年1月16日に小山、水戸館66.9キロメートルが開通しました。この時の駅は、結城、下館、岩瀬、笠間、太田町(同年5月25日宍戸と改称)、内原でした。(「日本国有鉄道百年史」第6章第4節(第1巻498ページ))稲田はありません。現在、稲田駅の前の一角に「稲田駅開業70周年 記念庭園 昭和43年5月8日」とあるように、稲田駅は遅れて営業を開始したのです。明冶31年5月8日のことです。しかしながら、実はその前年、明冶30年6月8日、「稲田石」を発送するための貨物駅が開設されています。これは、駅前に大きな「鍋島翁頌徳碑」のある鍋島彦七郎という人物が、「稲田石」を東京に出荷するために、1550余坪の土地を当時の日本鉄道会社(水戸鉄道会社は明冶25年日本鉄道会社と合併)に寄付をして漸く実現したものです。

現在もおおむね同様といえますが、当時は石材は運搬費が大きな割合を占めていましたから、石切山脈のすぐ庭先に出荷のために駅が出来たことは、稲田石発展の大きなきっかけになったということです。(ふるさと文庫「稲田石」関口ひろ子著 筑波書林 1981年:この本は、地学的な内容ではなく社会学的な内容で、著者の大学卒業論文が基になっています。鉄道駅と稲田石の関係の考察が興味を引きます。古書ではかなり高価になっていますので、図書館などで読まれると良いでしょう。リンク先は大学図書館などです。私は、守谷中央図書館で読みました。)

さてその「石切山脈」ですが、私有地であり、危険地帯と言うことなのでしょうか、所有する会社の案内でなければ見学が出来ません。私の今回の唯一最大の失敗は、訪問した当日が休日であったことです。休日は見学できないと言うことは、旧「石の百年館」の場合は知っていましたが、今回、笠間市の公設となったので淡い期待を抱いていましたがだめでした。すこし不満を言えば、現在、笠間市観光協会などのサイトでは、「石の百年館」案内がごく僅かで、情報更新も行われていないようです。今度は平日に時間を見つけて訪問してみたいと考えています。




2014年3月5日

平成25年度の技術士試験合格者発表がありました。合格率などが話題になることが多いのですが、それは今から受験する人にとってのことで、私などの年齢になると、試験全体がどのように違ってきているかに興味が移ります。最後に技術士試験を受けて合格したのは1999年ですから、かなり以前の事です。今でも技術士受験講座の講師をしていますので、いろいろ情報は収集していますし、解答を作成する事もあります。しかし、いずれにしても自宅事務所で机に向かってのことですから、試験場で初めて見た問題に解答するようなわけにはいきません。近年の問題はなんだか手応えがなくなってきたような気がするのは、そうした理由からでしょう。

それはさておき、平成15年度から合格者の統計情報が日本技術士会のサイトで発表されるようになりましたので、それを元にグラフを作成してみました。
     
   グラフ①   

グラフ①は年代別合格者数の平成15年度と平成25年度との比較です。平成15年度の合格者数は1,687人、平成25年度は3,801人です。平成15年度は平成14年度の合格者が9,078人と非常に多かった影響でか、受験者もかなり少ない(8,931人)年でした。ですから、比較対象としては適当ではないかもしれませんが、まあ本欄の興味は別の処にあるのでこのままにします。
10年前は30代が多く、40代、50代の順でしたが、本年度は30代40代がほぼ同じで50代へと続いています。まあ大きく見れば30代40代で取得してしまう、その年代で必要な資格であるという事でしょうか。
     
   グラフ②   

グラフの②は、合格者がどのような組織に属しているかを、①と同様に平成15年度と平成25年度を比較したものです。
まず目に付くのが、官庁、地方自治体、独法、公益法人、一般企業の増加です。官庁はなんと9.94倍、地方自治体は4.95倍、また、一般企業も10年で3.5倍になっています。10年前は建設コンサルタントの資格と思われていたと言っても過言ではない技術士の様相が変わってきていることの証左でしょう。技術者であれば、発注側・受注側を問わず、所持していたい資格になってきていると考えたくなります。






2014年1月5日

あけましておめでとうございます。

旧本欄は、年ごとにページを変えていましたが、余り意味は無いので今年から順次続けていくことにしました。更新頻度はあまり多くないとは思いますが、時々覗いていただけることを願っています。

今年も年賀状を多くいただきました。私のような年齢になると、もう後輩と呼んで良いような方(1年や2年で、先輩だとか後輩だとか言うのは、非体育系の私の基準にはは無いので)からも「定年を迎えました」というお知らせをいただきます。私には定年がありませんから、もったいないなあ、と思うばかりです。しかし、働く必要がなくなったと言うことは喜ばしいことなのかもしれません。
一方で、海外旅行の写真などで感想をお知らせいただく方も多くいます。いずれも世界遺産に登録されているような有名なところでの奥様との記念の写真が、定年になるとしたいことはこれであったのだな、と感じます。

当方も、年に一度の方が大部分なので、何か記憶にとどめておいていただけることを題材にしたいのですが、毎年干支と無難なご挨拶に終わってしまうことには忸怩たる思いもあります。

何はともあれ、今年は今までとは違った方向(土木の伝道師は相変わらずとして)に腕を伸ばせれば良いなと考えています。よろしくお願いします。







2013年12月25日

昨年からの楽しみであった「ターナー展」(東京都美術館)にようやく行ってきました。水曜日ならば高齢者優遇制度によって無料になるのですが、なかなかスケジュールが合わず、結局終了間際の日曜日になってしまいました。

「ターナー展」には、過去、1986年の国立西洋美術館での開催時も見に行きましたが、とてもすごい観客であったのを記憶しています。その時と比較すると、今回はまだゆっくりと観賞できたと感じました。
また、昨年の11月にも東京都美術館での「メトロポリタン美術館展」に、ターナーの作品が出ていたことは、本欄のこちらでも語っています。

1986年の時は「雨、蒸気、速度-グレート・ウエスタン鉄道」が良いと感じ、今回は、「平和-水葬」がそう感じられました。

思えば小学生の低学年の時初めて図画工作(美術とは言わなかった?)の教科書で「解体のため最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」を見て、ターナーを知ったときから、ずいぶんと長い時が過ぎました。

今回改めてターナーの生涯にわたる画業を顧み、また新たな感想を抱きました。それは、人物の入った作品はあまり感銘を受けなかったと言うことです。ターナーの「風景画」が良いのです。高橋由一に通ずるところがあります。

なにはともあれ、今年も出張が続きましたが、最後にターナーと再会したことが締めになったと考えれば、まずまずの年でした。






2013年10月5日

仕事で青森市に行ってきました。昨年も一昨年もお邪魔したのですが、市内のみの散策(八甲田丸など)で、離れたところへ出歩く機会がとれなかったので、今回は予定したスケジュールにしっかりと組み込んでみました。訪問先は三内丸山遺跡です。

この遺跡については、「三内丸山遺跡ガイドブック さんまる探訪」によると縄文時代としては国特別遺跡(国宝級!)3箇所の一つと言うことです(ちなみにあとの2箇所は、長野県茅野市尖石遺跡と秋田県鹿角市大湯環状列石です)。なんともわくわくするではないですか。私は明治鉄道史オタクでもありますが古代史オタクでもあるのです(縄文時代は古代史と言うより考古学の分野ですが)。(なお、写真もたくさん撮ってきましたが、いずれも公表されていますので、今回はリンクのみにします。)

東北新幹線新青森駅から「ねぶたん号」というバスに乗って10分ほどで到着です。こんなに近かったとは拍子抜けでした。しかも、入場無料でした!!。そのため、いつも掲載する入場券がありません。

入るとすぐ受付の方がパンフレットを持って出迎えてくれました。親切でしたね。シーズンオフなのか、人はまばらでした。ボランティアガイドさんが案内してくれるオプションもあるようでしたが、一人でトンネルのようなところをくぐって遺跡に入りました。全体の様子は冒頭のリンク先でご覧ください。

おなじみのこの巨大な建造物にも初めてお目にかかりました。(遺跡が巨大なので写真も大きくしてみました)
写真1 大型掘立柱建物

柱の様子は確かにこの通りなのでしょうが、何層にもなった床は果たしてどのような根拠があったのかをいろいろ想像してみました。先のガイドブックには、柱だけのや、屋根のあるものなど復元案が載っています。ちょっと引用(13ページ)してみます。写真2がそれです。
写真2 大型掘立柱建物復元案 写真3 発掘調査中

太い柱は容易に手に入ったでしょうが、どのようにして立ち上げたのでしょうか。クレーンも無い時代に。まさか、ピラミッドのように土でのり面を造り、落とし込んで建てたのでは無いでしょうが。土木屋としては気になるところです。同じように長さ32メートル幅9.8メートル、80坪の巨大な建物などの復元されたもの(写真1の右側に半分見える)をみると、縄文時代のイメージがかなり違ってきました。確かに竪穴式住居は縄文時代のイメージですが、高床式の掘立柱建物は屋根が寄せ棟で、茅葺きですからどうも弥生時代の感じがしますが、これも約4,500年前のものなのだそうです。しかも、いろいろな箇所の寸法が、35㎝の倍数(縄文尺と言うそうです)であると言うことで、ますます縄文時代のイメージが修正されました。

そのほか、大人の墓と子供の墓が別れていると言うことや、豪雪を想定した先の大型竪穴住居の2階からの出入り、石器材料の広範囲(和田峠、糸井川から十勝、日高まで)からの収集など、初めて知ることばかりでした。

よく整備されたひろばでは、ちょっと場違いなパワーショベルがなにやら仕事をしていましたので近づいてみました。復元住居の屋根(竪穴式)に土を塗り込めている工事でした。これも茅葺きしか知らなかったのでちょっと驚きでした。土屋根復元住居というのだそうです。

2時間ぐらいかけてゆっくり遺跡全体を回りました。周囲の林の中を覗くと、何人かの女性が発掘作業中でした(写真3)。もう発掘は終了した遺跡だと思っていたので、これも驚きでした(驚きの連発です)。挨拶してまだ発掘しているんですねと聴くと、やってますよと至極当然という返事が返ってきました。あとで展示室の資料で発掘報告会も行われている事を知りました。縄文時代のイメージは何となく未開で弥生時代になって文化が開けたというのは、どうも何十年も前にすり込まれた誤った知識であるという感を抱きました(遅いね)。

おまけですが、青森らしいと言えば、県庁の中庭にリンゴが植えてあり実を付けていました(写真4)。(茨城県庁には梅があったかな)
またちょっとおもしろい風景として、国道のつなぎ目があります。同じ国道の直線区間のある地点でナンバーが換わっています(写真5)。

写真4 県庁中庭のリンゴの林 写真5 国道7号と4号の接続点

今回は10,000年前に飛んでみました。




2013年8月24日

日付けでは順序が逆になりますが、昨年に引き続き島根県松江市に行ってきました。
私の行動範囲は監理技術者講習会でもおおむね名古屋市までですが、島根県((公財)島根県建設技術センター)からは別件でお招きいただいています。(講演の内容は本欄に関係が浅いので省きます。)

昨年は、新幹線と特急を乗り継いで訪問しました。茨城県から全行程列車というのはかなりおもしろい旅でした。列島を横断して分水嶺を通過(川の流れが逆になる事を車内放送で教えてくれた。これは良かった。)するという私にとっては希有な体験をしましたが、さすがに今年は飛行機を利用し、その分空いた時間で松江城に行ってきました。

「身近な土木」のページで訪問記を書こうと思ったのですが、どうもお城というのは建築の範疇ではないかと思うので(心が狭いね)こちらにしました。
松江城についてはいろいろなサイトがありますし、なにより本家のサイトがあります。また私よりも詳しい方はたくさんおられますから、解説や紹介は止めておきます。

私の目で見て興味を引いたことは次の5点です。
①天守閣を築造当時のまま見ることができる。
全国で現存する12天守のうちのひとつで、国指定の重要文化財なのだと言うことです。
石垣が崩れてなかなか築城できず、人柱によりようやくできたという言い伝え(松江の人小泉八雲による)や、後の方で書く洪水を考えると、軟弱地盤を想定できますが、見た限りではわかりませんでした。

②内部の柱が今で言う「集成材」である。
先の紹介サイトによれば「肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、吉晴の苦心の作である。」とのことです。集成材は接着しますが、そこまではされていない様です。 外観はなんだか橋脚の耐震補強を見るようです。

③内部の階段は、かなりの急角度である。
同じサイトには桐の階段として「板の厚さ約10センチメートル、階段の幅1.6メートルで1階から4階の各階の間に設けてある。階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものである。」とあります。
しかし勾配には触れていません。私は実際に上り下りして体験しました。これと同じような急勾配は、東京の愛宕山の階段があります。いずれも年代は異なりますが、角度は同じような具合に感じられました。少し調べてみる必要があるのかもしれません。ちなみに、外の石段は右の写真のように特別急角度ではありません。

④石垣の石の積み方が古式に属する。
いろいろなお城跡を訪問して土木屋の一番の興味はなんと言っても石垣です。きれいな切石から自然のままと思われる石まで、様々な顔を見ることができます。たとえば仙台の青葉城では、Ⅲ期に及ぶ時代によって石の顔も積み方も異なっています。その最も洗練された例が右の写真ですが、左写真の松江城石垣と比べると違いがよくわかります。

⑤近年の水害から想像すると過去にもお城が孤立したことがあったのではないかと思われる。
松江城の脇には島根県庁(昔のお殿様の御殿跡だそうです。)があります(左写真の左側ビルが県庁舎)が、その附近の街灯柱に、過去の水害(昭和47年7月洪水)の表示があります。松江駅の駅舎外壁にも同様の表示があります。これを見ると、この辺りはほとんど高低差がないようです。地元の人に聞いたところ、もうみんな忘れているだろうね、とのことでした。近頃の島根県の豪雨を考えると、忘れていない方が良いような気がします。

唐突ですが、NHKで「ブラタモリ」という番組がありました。その中で「江戸城外堀」という回(拡大編もあった)が、とてもおもしろかったのですが、日本で唯一、内堀と外堀が全て残っているのはこの松江市のみだそうです。 江戸城外堀に限らず、ほとんどは埋め立てられてしまった様です。

最後に、天守閣最上階からの眺めを掲載します。右に宍道湖を遠望しています。

写真はもっとあるのですが、またの機会に掲載します。保存しておくと思いがけないことが起こるかもしれません。「松江市は、松江城の大手門を復元するための懸賞制度を定めて、資料を探しています。」




2013年7月9日

先日仕事で盛岡市に行きました。昨年は「岩手銀行中ノ橋支店」閉店にぎりぎり間に合って中を見ることが出来ました(今年は改装中らしく中を見ることは出来ません。)が、そのため、盛岡城趾以外には行けませんでした。
今年は、「あまちゃん」一色の中、それには目もくれず「もりおか歴史文化館」と「新山舟橋」跡地を目的地としました。仕事が優先なので、多くの時間を割くことは出来ませんから、初日は到着時間を調整して「もりおか歴史文化館」に行きました。

駅からバスに乗り、「映画館通り」の辺りでおりてみました。裁判所の前庭にある「石割り桜」(写真下左)と「岩手県公会堂」(写真下右)とに立ち寄りましたが、とくに「岩手県公会堂」が現在も使用されているのには感激しました。もっとも「岩手銀行中ノ橋支店」も昨年までは現役であったわけで、驚くに足りませんが。「石割り桜」は、やはり桜の季節でなければ今ひとつです。
     

どこか新しい土地に行くと、まず最初に歴史博物館ないし資料館を目指します。と言うわけで、県庁や市役所を通り越し、盛岡城址公園入り口の「もりおか歴史文化館」に入りました。(わが街はこうした施設を持っていません。残念なことです)最近のこうした施設は、内容はともかく、見た目を楽しませるように出来ていて、子ども達の郷土学習に役立てるようになっています。(「入場券」写真下左)
         

1階にある「チャグチャグ馬コ」(上写真右)は、盛装で、きらびやかなものです。いまではどうなのでしょうか。2階は有料で、常設の歴史展示室になっています。常設展示室はそれほど広くはなく、しかも「南部家」に関するものが多いので、東北の縄文時代などは結構手薄です。

しかし、歴史常設展示室の入り口にある「新山舟橋」の模型(拡大するとよく見えます)は、いままでいろいろな歴史資料館を見て来ましたが、そのなかでも単純で明快な模型でした。舟を並べて鎖でつなぎ、板を渡して橋にする様子が、かなり大きく、周囲の様子は絵も模型もなく、奥の方は暗くて見えず、まるで幽冥界をつなぐ橋のようです。

盛岡城の模型などもありましたが、お城はやはり本物が良いようで、島根県松江市にお邪魔したときに登った松江城などは圧巻でした。(日にちは逆になりますが、近日中に「松江城」探訪もこの欄に載せます。)

「もりおか歴史文化館」の中が新しいのでパンフレットをよく読んだら、旧岩手県立図書館を増改築して平成23年7月開館とありました。

一通り見て、時間を勘案したら、明るいうちに着きそうなので「新山舟橋」まで足を伸ばすことにしました。歩くこと1時間あまり、明冶橋まで来ました。この辺りのはずなのですがが、痕跡(看板など)が見当たりません。もっと良く研究しておけば良かったと悔やんでも、なにやら曇ってきましたので引き返しました。ここからまた1時間強、盛岡駅まで市内を歩きです。

翌日、仕事の会場を地図で確認すると、明冶橋から歩いて15分もあれば着くようです。昨年は季節がもっと夏で、しかも道に迷って、ずいぶんうろうろしましたので、今年はその愚を繰り返すまいと、研究を重ねてきました。

しかし、もっとよく見ると東北線の仙北町駅から近いようです。明冶橋を逆に渡るのもおもしろいので、ホテルを早々とチェックアウトし、通勤通学の人々とは逆に、盛岡駅から一駅、仙北町駅に行きました。
         

昨日とは打って変わって良く晴れていましたが、空気は乾いていて結構すがすがしい朝です。通勤通学の自転車と自家用車で混み合う盛岡環状線から明冶橋を渡って、前夜調べておいたように、明冶橋の北岸を右に折れて少し行くとありました。「御蔵」と呼ばれている白い建物の手前に石柱と案内板があります。これが、「新山舟橋」の跡です。(下写真左)
         

北上川を見ると、ごろごろと石が固まっていて自然ではなく人が置いたようになっています。(上写真右)まさにここが「新山舟橋」の跡であると言うことでしょう。

石柱には「明冶橋 明冶六年造」とあります。果たして、それまで「舟橋」は架かっていたのでしょうか。「明冶七年に木橋が出来るまで」架かっていたと案内板にはありました。そんなこんなで、跡を見るということはなんだか消化不良のようです。そうかといって、模型や復元施設では物足りないので、まあこんな処でしょうか。




2013年3月31日

明日から始まる年度でも、専門学校の学生さんに土木の授業を行う事になりました。

今、隙間の時間を見つけては、土木施工管理技術検定試験の参考サイトを作りつつあります。私の学生さん達が受験するのは2級のそれですから、レベル(というか範囲)はあわせています。少し高度な、歴史学で言えば通史のような、「土木概論」のような内容の物を書きたいのですが、私の能力では無理でしょう。「土木施工」に限定したとしても、私はダムや橋梁などは経験がありませんから、それらについてわかりやすく述べるだけのの「ノウハウ」を持ち合わせていません。結局、長年講義をし、資料も収集してきた土木施工管理技術検定試験の受験参考書的内容が身の丈にふさわしいのではないかと考えています。

一方では、あちこちの現場見学や、行政の臨時監督職員時代、コンサルタントとしての現場管理時代に撮りためた多くの写真がありますから、それを何かの機会に役立てたいと考えて射ました。技術や工学の説明では、なんと言っても画像、写真が物を言います。多くの受験参考書を見ると、図はある程度ありますが、写真はごく少ないのです。

もちろん、私の写真には、説明に最適な写真は多くはありませんが、そこは学問的な正確さと言うより、土木の世界を「感じて」もらえればそれでよいのです。

さて、こうして文章を書くことについては、話しは少し脇道に逸れますが、最近感じていることがあります。

土木施工管理技術検定試験には、実地試験があります。1級は学科試験合格者のみが受験できますが、2級では同日です。しかし、負担軽減のため、在学生でも、卒業見込みであれば学科試験だけは受験できます。合格してから所定の実務経験を積み、改めて実地試験を受験するのです。私の学生さんたちは、この後者で、実務の経験が無いので正確に言えば合格しても実地試験の受験資格がなく、従って施工管理技士登録ができません。

この実地試験は記述式が一部にあって、ネットの世界などでは「作文」と言われていますが、どうも合格率の低さは、この記述式問題にあるようです。端的に言えば「作文」つまり、自分の考えたことを文章に表すことが上手くできないのです。

土木の資格試験には、他にRCCM試験や技術士建設部門などがあり、これらも記述式解答が主体です。こちらは最初から解答論文という形で文章を記述しますから、所謂「作文」とは大いに違います。しかしながら、よく見てみると、「自分の考えていることを文章に表す」ことはかろうじてできても、それを相手が理解するかどうかまでは考えていない解答論文が多いのです。言いっ放しですね。

理解しないのはこちらが悪いのではなく読む方が悪い、というのかもしれないのです。何でも自分は悪くない、自分を理解しない方がよくない、自分はそんな読み手にあわせて書く気は無い、とでも言うのでしょうか。まさかそうではないでしょうが。

話を私のサイトに戻しますが、できれば技術の内容だけでなく、コンサルタントや現場監督として、他人に説明したり納得してもらう「文章」はどのようなものか、という事がわかってもらえるようなサイトにしていけたらよいな、と、考えています。

話しをする事と、文章にすることは、全く違うのですが、その辺りを今度はこちらがどう書いたらよいのかが課題となりますね。何しろ私は物書きの修練は何一つしていませんから、他人の足りないところはよくわかるが、自分のとなると試行錯誤で解決するしかないのです。






2013年2月25日

本日から、本欄の表題を少し変更して、「技術士のひとりごと」を小さくしました。このところしばらく、技術的な話題から離れていましたので、実態に合わせての変更です。しかし、全くなくしたわけではないので、技術的な話題を取り上げないつもりはありません。

「酔哲」とは号のようなニックネームのようなものと(自分では)考えています。公式(というか仕事)以外の場合は、これを代名詞にしています。このサイトは、仕事のことも少しはありますが、徐々に薄めていこうと思います。といっても生涯現役ですから、仕事を辞めるわけではありません。

ということで、改めた第一回は、土木屋にとってはおなじみ「高橋由一」に関する話題です。

高橋由一については、過去にも取り上げましたが、うっかりして彼が下野佐野藩の出身だと言うことをあまり強くは思い出さないでいました。もっとも、生まれは江戸ですから、父が佐野藩士出会ったと言うだけですが。

思い出したのは、最近、仕事の合間に那須塩原市にある「那須野が原博物館」を訪ねたためです。高橋由一とゆかりがあることは三島通庸関係で知っていましたが、「下野」つながりまでは思い出さなかったのです。那須塩原市は栃木県、即ち下野国にあります。

この博物館は、下の写真のように、平屋でこじんまりしており、常設展示室がひとつ企画展示室が一つの建物です。

   
 博物館外観     入館券

館外に「西那須野開拓百年記念」で建立された由一の碑(下写真左)があり、脇に「高橋由一像に就いて」という説明板があります。説明文の冒頭に「高橋由一は下野国旧佐野藩の出自。」とあったので、改めて思い出しました。なるほど、土地としての出生地は、こうした際あまり関係はなく、江戸で生まれても下野が生まれ故郷になるのか、と思った次第です。
   
 高橋由一の碑  石塚(石ぐら)

高橋由一についてのことはもうすでにタイトルを変更する前のこの回で書きました。三島通庸の依頼で東北を巡り、主として土木工事の成果である道路や橋梁や隧道のスケッチ(石版画や油絵の下絵)を残し、その多くが当那須野が原博物館に収蔵され、一部は常設展示されています。油絵「鑿道八景」や「栗子山隧道図西洞門」、石版画として「三県道路完成記念帳」などが有名です。過去何回か由一に関する展示を行い、その図録などがまとめられて売店で売られていました(当館を訪問したもう一つの理由は、このミュージアムショップで販売されているこれら由一に関するものを手にとって選び、吟味して購入したかったからで、目的の大部分は達成しました)。

この博物館は、旧三島農場事務所跡地にあります。三島農場は、1880年(明治13年)に政府から約992haの貸下を受け、三島通庸の息子弥太郎名義で鹿児島県士族など14名が創設した農場だということです。当初は肇耕社(ちょうこうしゃ)といい、のち解散して、1886年(明治19年)三島家単独経営の三島農場(当時の名称は三島開墾地)となったものです。さすがの通庸も、実質はともかく、名義は息子としていたということですか。

由一や通庸と直接は関係ないのですが、展示品の中で興味を引いたのは、開拓民家の復元建物と那須人車軌道の復元車両です。(先の博物館へのリンクから「常設展」を開いてください。もう少し説明が詳しければよいのですが。まあ、実際に見に行くに越したことはありませんね)
とても家族で住まいする都は思えない狭さと構造の家と、8人(後6人)を乗せた車両を人間が2人ないし1人で押す鉄道とは、当時は全く今とは違う価値観が存在したと思わせるようです。

屋外には「石塚(石ぐら)」と呼ばれる、川原石の積み上げられたものの復元が展示してあります(上写真右)。那須野が原は表土が薄く開墾しようとしてもすぐに石が出てしまうので、取り除いたものが積み重なったのだと説明されています。それも、戦後の水田化や宅地化で見られなくなったとあります。

私は国道4号線を通りながら、蛇尾川を眺めていて水の流れていないことに気がつき、いくら渇水期でもこれは何かの事情があるのだろうと考えましたが、この博物館で那須高原の地質的成り立ちを知り納得しました(この歳までうかつにも知りませんでした)。

説明によれば、次のようです(水野要約)。【この那須野が原は複合扇状地で厚く礫層が分布している。蛇尾川中流域は礫層が深く、通常は伏流水として流れる水無川となっている。下流に行くと礫層が浅くなり扇状地の扇端にあたる大田原市郊外で水流が復帰する。川底に水が流れていない光景が10キロ以上連続するが、大雨の際にはこの河原に大量の水が流れ、過去には洪水による被害を幾度も起こしている。】
ということであるそうです。

日本三大疏水の一つである那須疏水が明治期に作られたのも、このような地質で水に乏しい那須野ヶ原開拓地の水田灌漑・飲用を目的としたということが納得できます。
ちなみに、他の二つの疏水は琵琶湖疏水(京都府)と安積疏水(福島県)で、いつか訪ねたい土木遺産です。

閑話休題
近くには「那須野が原公園」があり、その展望塔(サンサンタワー)に登ると、遙かに筑波山を見ることができます。つまり、筑波山と那須高原の間には遮るものがないほど平地が連続しているのです。これも一つの新しい発見でした。



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